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サハラマラソン挑戦記
挑戦者: 大久保淳一
レース: 第34回サハラマラソン(モロッコ)
期間: 2019年4月5日~15日 7日間6ステージ走行距離合計:250Km
成績: 総合順位729位 合計タイム:62時間43分10秒
日本人ランナー:26名(内棄権1名)

2007年のこと

「がんが、腹部、肺、首にまで転移しています。精巣がんの最終ステージまで進行しています」2007年、医師の言葉に凍りついた。働き盛りの42歳、2人の子供が、まだ8歳と6歳。告げられた5年生存率は20%。マラソン復帰などあり得ない。果たして生きられるのか…、そんな状況だった。その後、手術、抗がん剤治療、2度目の手術と繰り返し、悪いことに合併症・間質性肺炎を併発。肺機能の3分の1を失う。10ヶ月に及ぶ入院治療により衰弱していた。2007年のことだった。

サハラ砂漠250㎞マラソンとの出会い

私がMDSサハラ砂漠250㎞マラソンを初めて知ったのは1999年。米国留学から帰国し外資系投資銀行ゴールドマン・サックスに転職した頃。NHKのドキュメンタリー番組でMDSが紹介され、その魅力に引き込まれた。見たこともない大自然。自らの限界に挑むランナー達。サハラ砂漠という非日常での生活。特に主催者のパトリック・バウアー氏の大会にかける想いに心打たれた。いつか出場したいと目標にし、2004年から4年連続、サロマ湖100㎞ウルトラマラソンを完走。次はMDSだと決めた矢先の「がん告知」、絶望した。

2019年大会に向けて

一時は死線をさ迷ったが、医師たちの献身的な治療と家族の支えにより奇跡的に一命を取り留めた。その後、長期のリハビリを経て「がん」から6年後、サロマ湖100㎞ウルトラマラソンに復帰。昨年(2018年)はサロマンブルー(サロマ湖100㎞ウルトラマラソンを生涯10回完走したランナーの称号)を達成し月刊ランナーズ誌の「2018年ランナーズ賞」を受賞。今度こそ悲願・サハラ砂漠250㎞マラソン挑戦と心を躍らせていたが、両脚を故障してしまう。

過度の練習から右ひざ腸脛靭帯炎と左アキレス腱炎により6ヵ月近く走れない。慈恵医大病院と筑波大学理療科で治療を続けていた。2019年1月、大会まで3ヵ月と迫り焦っていた私を励まし、大会直前まで貴重な体験情報を提供してくれたのが過去の完走者達だった。

とりわけ、牟田口玲奈氏、地守亮氏、勝木勇光氏には感謝している。

彼らはFacebookグループ「サンドネ」を通じ様々な質問に答えてくれた。

トレーニング開始

「いままでの練習方法では通用しない」

学ぶにつれてそれがわかる。なぜなら私はロードのマラソン中心で不整地を走るトレランの経験がない。10kg以上のザックなんて背負ったことすらない。サハラ砂漠250㎞マラソンを完走するには走力はもちろん、7日分の装備、そして過酷な自然環境に対応する心身が必要となる。不安な中、参考にしたのが本サイト「国境なきランナーズ」に寄せられた川畑道子氏の体験記。とても良かった。その後、従来の「30㎞ペース走」「インターバル・トレーニング」から一変させ、重いザックを背負っての実践トレーニングに切り替えた。

❏ 高尾山-城山-景信山 山登り(6~8時間)

❏ 大磯海岸から鎌倉までの砂浜ラン&ウォーク(6~8時間)

※毎週この2つをノルマとしザックの負荷は当初6kgから始め、最終12kgまで増やした。

これらのトレーニングに付き合ってくれたのが、皆木治樹氏と田村敦氏。地味できつい練習を共にしてくれる友人がいたことは幸運だった。

これ以外に神社の石階段上り下り、傾斜5~8度のトレッドミルを使った20㎞走。練習中は本番を想定した行動食を用意し、自分にあう食事を探し続けた。筋力を付けなくてはならない大事な時期に、α米、カップ麺、ナッツ、お菓子類を食べていることに抵抗はあったが、この徹底した食の準備のお陰で、本番は食事トラブル無く過ごせた。

リタイヤしたくない

リタイヤする選手の多くは「熱中症」「足マメ・靴擦れ」が原因だ。熱中症対策は十分な水分と塩分の補給に尽きるが、ち密な%計算をし助言する地守氏(サンドネ参照)には大いに助けられた。

大会に際し、私が最も恐れたのが足マメと靴擦れ。グーグル画像にある海外選手たちの足トラブルは大怪我の様相でゾッとした。表皮が3層くらいまで剥がれ、爪が死に、足首が腫れあがった写真。そこまで酷くなくとも過半数の選手が何らかの足トラブルを抱えるという。対策方法は人の数ほどあると思うが、私にとって良かったのは、鈴木款氏と堀主知ロバート氏(サンドネ参照)が教えてくれた事前にテーピングを貼る方法だ。靴に入り込む砂と皮膚の直接接触を防ぐことでリスクを下げる。鈴木氏からプレゼントされたヒョウ柄のテープを張っていると海外の選手たちから写真を撮らせてくれと注目されたが、お陰様で私は希少な足トラブル・ゼロの完走者となれた。

装備の準備

トップランナーから完走を目指す選手まで共通して重要になるのが装備だ。私は走力以上に装備が大切だと思う。内容を充実させれば重くなり負荷が増す。一方、内容を削ると生活に支障が出かねない。大方の選手は水を抜いたザックの重量が7kg~11kgになる。私は8.5kgを目指したが前日の計量で8.8kgとなってしまった。ただ、これは良かったと振り返る。なぜなら、サハラ砂漠は想像以上に寒かった。もちろん日中ではなく夜中のことだ。暑さより寒さが苦手な私は最後の最後まで装備に悩んだ。だから、現地に色んな装備を持ち込み、第1ステージ前々日にサハラ砂漠の夜を体験してから最終装備を決めることにしたが、これが上手くいった。防寒用に毛糸の帽子、手袋、寝袋のエアマットを追加し、翌日のテクニカルチェック後に残りの荷物を大会スタッフに預けた。後日、暖かくなり不要になれば捨てればいいと割り切った。

テントメイト

本大会では国ごとにテントが割り振られる。この年27人が参加した日本人チームに4つのテントが用意された。誰と一緒になるか?ワルザザード空港からバスで移動中に提出するのだが、隣席の岡田博紀氏が一緒になりましょうと6人を纏めてくれた。後に苦楽を共にするテントメイトは、前述の牟田口氏、川畑氏、岡田氏の他、秋吉妙子氏、羽隅順子氏と私の6人。お互いの健闘を褒め合う大人な人達で、学ぶことの多い仲間と巡り会えたのは生涯の財産になった。

中でも岡田氏とは、大会前に夕食を一緒させて頂いたが「大久保さんなら必ず完走できる。だから、これ以上の厳しい練習をして怪我を悪化させることはやめてください」そう忠告してくれた友人だ。不安の最中にいた私には、とても有り難い助言だった。

テントメイトの5人は、毎日最後にゴールする私を「お帰り」と温かく迎えてくれ、日ごとに家族的な仲になった。

他の日本人選手たちも、夕方遅くにゴールする私をハグで迎え入れてくれた。優しい仲間達に恵まれたことが完走への大きな「力」となった。皆にとても感謝している。

第34回サハラ砂漠250㎞マラソン開始

ワルザザード空港から6時間以上かけバスで移動し、初日のビバーク(野営地点)に到着。既に日が暮れて夜、寒くなっていた。なるべく早く食事を終え眠りにつかなくてはならない。日のあるうちに到着すると思っていた私は、「砂漠では予定通りにはならない」それを初日から思い知らされた。

サハラ砂漠3日目、いよいよ第1ステージの32.2㎞。20年前NHKのドキュメンタリーで観たパトリック・バウアー氏が、スタート地点にある車の屋根に登り、マイクで全選手たちに語りかけ、皆の成功を祈る。大音響のハードロック。横飛びするヘリコプター。あこがれのサハラ砂漠250㎞マラソン。ついにそれが始まった。

コース状況については既述の本サイト川畑氏の体験記をご参照頂きたい。コースは毎年異なるが、素晴らしく書かれている体験記だ。

私はあえて全選手の最後尾からスタート。走りたいという気持ちを抑えて歩く。大会前に地守氏に言われた。「大久保さんの場合、我慢して走らないことが大事です」アキレス腱炎再発を危惧しての忠告だ。「4日目のオーバーナイト・ステージからが本番。そこまで体力温存しなくちゃダメです」そう助言した皆木氏。先人たちのアドバイスに従い後方をひたすら歩き続けた。

だが、歩いていると風景がよく見える。2文字で「砂漠」と言っても様々な顔がある。同じ砂地やガレ場でも、こんなにも違うものかと驚かされるし、刻一刻と替わる景色に魅了される。選手たちの体調を気遣う大会スタッフが、コース上で声をかけ私達を見守る。23㎞地点にいたフランス人スタッフから声をかけられた。

「ジュンイチ、見えるか?あれはミラージュだ」

指さす方向に「蜃気楼(=ミラージュ)」があった。水のない砂漠に、海と島が映し出される。初めて見る信じられない光景。サハラ砂漠250㎞マラソンの醍醐味の一つだ。

満天の星空

私が本大会で最も楽しみにしていたのが、砂漠の夜の星空。水と光のない大地に現れる星。毎晩夜中にトイレに起きて見上げる天空には、降り注ぐように星がみえた。北斗七星、さそり座。まるで巨大なプラネタリウムに入り込んだようで、自然と涙が出てくるような感動をする。昼間の景色もすごいが、夜の星空も素晴らしい。過酷なマラソンに参加しているからこそ、より美しく映る。MDSは感動の宝庫だ。

チェビ大砂丘

サハラ砂漠250㎞マラソン第2ステージ巨大なChebbi 大砂丘超え

MDSのコースは毎年変わる。2019年は第2ステージにチェビ大砂丘越えが用意されていた。約13㎞に及ぶ小砂丘の連続。圧巻だった。クリーム色の細かい砂。砂時計の砂のようなサラサラとしたそれが、果てしなく続くのだから歩きすら、きつい。「砂の大海原」と形容した作家がいたが、その砂丘にランナーたちが飲み込まれ、もがきつつも、ついには乗り越えていく。大自然とそれに向かう選手たちが織り成す巨大なエネルギーを感じた。

オーバーナイト・ステージ

第4ステージ、76.3㎞、オーバーナイト。過去の経験者たちが「鬼門」と位置付けるステージ。私は緊張してこの日を迎えた。既に3日間のレースを終え疲労が蓄積している。にもかかわらず最長距離を夜通し進むオーバーナイト。大会の目玉の一つだ。私はこの日もマイペースを貫いたが、昼過ぎ、軽快に走るトップ選手たちに抜かされた。上位50名のランナーたちが時差スタートし、残り800人以上を追い抜いていくのだ。かっこよかった。とても同じレースをしているとは思えない程、カッコいい。Good job! Great work! と声をかけ手を叩く私に追い抜きざま手を上げ You’re greater! と返すトップ選手たち。選手同士の一体感を感じる。

そして、日が沈み夜の始まり。第3チェックポイントで先に夕食をとっていた岡田氏と偶然再会。これから始まる真っ暗闇の砂漠は「一緒に行こう」となった。岡田氏と共に夜のサハラ砂漠を行動できたことは、私にとって本当に運が良かった。砂漠の暗闇は恐い。本当に怖いのだ。真っ暗な中、ヘッドライトだけを頼りにするが、見えるすべてのものが白黒画像なのだ。色彩のないモノクロの世界。見える範囲は数メートル先だけ。経験したことのない恐怖の中、自分と向き合う時間。そんな時、同志が近くにいることはとても心強い。真っ暗な中を7時間以上進み、第5チェックポイントに辿り着いたのが午前2時半。フラフラで危険だからと2人は仮眠を決めた。

そして迎えた翌朝、そこには素晴らしい景色のサハラ砂漠が広がっていた。第4ステージ残り15㎞を2人で進み午前中にゴール。

このとき「最終ステージの明日も完走できる」そんな自信めいたものを感じた。しかし、同時に何かを喪失するような錯覚を覚えた。間もなくサハラ砂漠250㎞マラソンが終わろうとしている、そんな寂しさだった。

マラソン・ステージ

Apr5 大会主催者のパトリック・バウアー氏と空港で撮影

本大会は7日間行われるが7日目のチャリティーステージは6㎞と短く順位にカウントされない。だから6日目の第5ステージ、42.2㎞が実質最終となる。その距離からマラソン・ステージと呼ばれる。この日は大小の山を幾つも乗り越えるコースだったが、コース設計者はよく考えてあると感心した。山の頂に辿り着くたびに広大なサハラ砂漠を見渡せる。最後の山から見下ろした景色は圧巻で「自分はこんなにも厳しいサハラ砂漠を乗り越えた」そんな満足感に浸る。

そして、クライマックス。まるでビクトリーロードのようで、残り4㎞の広大な砂地の先にゴール地点が見える。それをじっくり味わってゴールした時、待ち受けていたパトリック・バウアー氏から言われた。

「ジュンイチ、ボクはユーのすごいストーリーを知っている。本当におめでとう」

今大会2日目「がんからサハラ砂漠挑戦」という私についての取材記事が大会ホームページに掲載された。しかも、先にゴールしていた牟田口氏が、パトリックに私のことをリマインドしてくれていた。34年間もこの大会を運営している彼から、ねぎらいとお祝いの言葉をかけられグッときた。20年に及んだ私の挑戦が終わった至福の時だった。

最後に

体験記執筆の依頼を受け、今後、サハラ砂漠250㎞マラソンに挑戦する人達に役立つ普遍的な情報を盛り込み伝えようと心掛けた。同時に、参加を迷っている人たちに、例え重い病気をしても、怪我故障で不安だったとしても、臆せず挑戦して欲しいと願い筆をとった。

なぜなら、こんな素晴らしい大会は滅多にないからだ。

私は今年55歳。次、60歳までにもう一度参加したいと思っている。その時は、是非、フランス語と星座の勉強をして臨みたい。願わくは、時差スタートする上位選手レベルくらいまで走力をつけてから参加したい。今から次が楽しみだ。

最後に、私という「がん経験者の挑戦」を応援してくれた友人たちと家族、リエゾン機能として支えてくれた「国境なきランナーズ(株式会社フリーマン)」、私の挑戦を支援してくれた協賛企業(三井化学、アフラック)、そして長年にわたり大会運営をされているAOIの皆さんにお礼申し上げたい。

MDSサハラ砂漠250㎞マラソンを走らせて頂き、本当にありがとうございました。

大久保淳一

2019年5月

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