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サハラマラソン挑戦記

日本人初挑戦! 「2011(第4回)コスタリカ・ラン」レース記

挑戦者: タダ シンイチ
多田 慎一
レース: 第4回 コスタリカラン
期間: 2011年11月23日〜12月3日
ランキング: 冒険部門5位
合計タイム:17時間45分

ジャングルカリブ海の砂浜。後ろの青シャツは68歳、総合順位は私より上。

レース概略

2011.11.23−12.03のコスタリカ横断ランニングレースへ参加した。

太平洋から3000m弱の山をいくつか越え、7日間で大西洋へ至るレースである。(一部は車で移動)レースの主催はフランスの冒険会社で今年4回目、4回目にして日本人は初参加、かつ私ひとりである。

過激部門と冒険部門と2部門がある。過激部門は一日約40km走り、一日最大2800mを登る。冒険部門は過激部門の前半あるいは後半を一日約20km走り、登り一日最大1400m。私は冒険部門へ参加した。

選手は各々10名で計20名、7か国、女性6人、60歳以上私を含めて4名。スタッフは20名強。医師・マッサージ師、救命救急士もおられる。車両は計10台。救急車2台を含む。

冒険部門1位はフランス人女性50歳前後で15時間18分、私は5位で17時間45分、9位(最下位)はフランス人男性40歳前後で21時間41分。捻挫により冒険部門の1名のみが完走できなかった。

レースの一日様子

6日間走ったが、各日に大きな違いはなく、大体の様子を記す。

レースは田園地帯や山間部を通るので適当なホテルがない。田園地帯の町では宴会場、山間の村では小学校の教室を宿とした。それぞれの床に、選手とスタッフ40名強が寝袋に包まって雑魚寝した。数名が屋内にテントを設置し、個室を作っておられた。私は冬用の寝袋と厚さ1pにも満たないマットを使用した。他の方々はエアマットが普通で、厚さ10p・1m×2mとベッドと同様のマットも見かけた。

朝、5時過ぎ明るくなる。6時ごろボチボチ起きだす。全身をゆっくりストレッチ。寝袋やマットを片付ける。7時朝食、献立はどこでも大体同じで、豆ご飯とスクランブルエッグだった。食後着替え。前の日の濡れが残っているし、靴はグショグショである。私は、次のスタイルである。

  • 帽子、半袖ランニングシャツ、ロングランニングタイツ、五本指靴下、トレイルラン用靴、足首に泥除けスパッツ、高度計付腕時計、顔に虫よけクリーム。

次いで、荷物を三つに分ける。(一部は既にサンホセのホテルに預けてある。)

  • その1:背負って走るものである。小さいザック、水500cc、雨具上着のみ、飴、ビスケット、絆創膏・包帯、レスキューシート、笛、サングラス、軍手、タオル、トイレ紙、防水カメラ。
  • その2:ゴール後の着替えである。Tシャツとジャージ上着
  • その3:その他のすべて。寝袋、マット、着替え、替えの靴、サンダル、洗面用品、ノート、食料、などである。大きなザックに詰めた。私は、パスポートもクレジットカードも現金もこれに入れた。

「その2着替え」をバスに、「その3その他のすべて」をトラックに預ける。

8時、バスはこの日のゴールへ、トラックはこの日の宿へ出発する。8時半、選手が集合して車でスタート地点に移動する。9時頃、適当なタイミングを見計らって、責任者ベルナルドがカウントダウンしてスタートする。このカウントはフランス語なので私にはわからず、皆さんが走り始めたら続くことになる。コースの大半は林道であり、周囲の地形も景色も日本に似ている。違いと言えば動植物。直径1mもある葉っぱがあったり、日本では見かけない鳥がいたり。

コースはほぼ一本道で迷いようもない。数百メートルおきに緑と白のテープの目印が木の枝からぶら下がっている。分岐点には2-3本あったり、オレンジのペンキで矢印が示されていたり、スタッフが立って案内してくれることもある。

登り下りの走りはきつい。急な傾斜の登りは走れず、歩くしかない。下りが標高差で千mも続くと、足と腰が制御不可能、バラバラの動きになってしまう。つま先もおかしくなる。現在地の確認に高度計が有効だった。時々コースがジャングルの中に設定されている。泥まみれになり、滑るので枝につかまり、川があれば膝上まで水につかるなど、色々楽しませてくれる。また、天候は一時間ごとに、晴れか曇り・雨、と変化する。毎日1〜2時間は雨の中を走っていることになる。もはや気にもならずランニング中、雨具を使用したこともなかった。逆に晴れていると虫がまとわりついて邪魔だった。途中一か所チェックポイントがあり、水、コーラ、ビスケット、クラッカー、バナナ、オレンジなどが提供された。

毎日、よれよれでゴール。ゴール地点にバスが待っていてくれるので、雨で濡れたレース着を、預けてあったTシャツに着替える。ストレッチ。ある程度人数まとまると車で移動し、昼過ぎこの日の宿泊地に着く。宴会場や小学校である。のんびりしはしていられない、まず濡れ衣類を干す場所確保、次に寝る場所確保。早い者勝ちである。洗濯バサミに紐をつけていったのが便利だった。携帯電話などの充電にコンセントを探す方もおられた。水のみのシャワーは全施設にあった。医師とマッサージ師が選手たちのマメ、つま先、筋・関節の痛みなどの対応に多忙だった。

食堂のボードに予定が示されている。「6時フェスタ。6時半ミーティング・夕食。明朝7時朝食、8時荷物積み込み、8時半出発。」などである。

フェスタでは、小学生や女性数名が着飾ってダンスなどを披露などしてくれた。次いでミーティング。

その日の成績、翌日のコースの説明がなされる。8時半から9時ぐらいに消灯した。

各日(抄)

11月24日:フランス大使館で開会式が行われた。大使やレース責任者ベルナルドが挨拶し、昼食会があった。ホテルへ戻って、医師のチェック、持ち物確認。持ち物は規則書には細々記されていたが、ここでの確認は、ザック、ヘッドランプ、雨具、レスキューシート、笛のみだった。

25日:サンホセからバス4時間で太平洋へ移動。太平洋にタッチした。これから大西洋に向かうことになる。この日はプロローグとして、浜辺を6km走った。

28日:24km、600m登って標高2800mの峠越え、空気の薄さも辛かった。その後、一気に標高1000mまで下る。長時間の連続下りに、足と腰は疲労の極に達した。さらに一部ジャングルの中にコースが設定され、あちこちつかまるので、手と腕も翌日の筋肉痛がひどかった。

29日:24km、この日のみ早朝4時スタートである。5時過ぎまでヘッドランプをつけて走った。

30日:ゴムボートに乗って川下り。一艘のボートにガイドひとりと我ら6人。この日は水量が多かったとかで迫力あった。2時間強楽しんだ。なお、これはレース成績には含まない。

12月1日:とうとう大西洋である。野を越え、山を越えここまでやってきた。仕上げとしてカリブ海の浜辺を22km走った。砂に足がめり込んだり、腰まで海水につかったりと、最後まで楽しませてくれた。
19名めでたくゴール後、ホテルへ移動。夕食前ホテルで表彰式。

2日: 5時間のバス乗車でサンホセへ戻った。夜パーティ。事実上この日で皆さんとお別れである。選手・スタッフの皆さんにお世話になったと挨拶。医師には世話にならなくてよかったと挨拶。

3日:朝5時ホテルを出て、サンホセ空港へ。帰国の途についた。

以上

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