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サハラマラソン挑戦記
挑戦者: 近藤 大樹(ひろき)
レース: 第25回サハラマラソン
期間: 2010年4月4日〜4月10日 (7日間6ステージ)
ランキング: 総合602位/完走923名/出場1013名
合計タイム:52時間23分41秒(4.75km/時間)

サハラ2009年春。サハラマラソンが終わった。
日本に戻って来て、直ぐにリクルートスーツに着替えた。無事内定を貰い、来年の春から就職する事が決まった。
「来年の春からは就職か・・」
そんな事を考えながら夜の道を散歩していた時、突然大きな風が吹いた。
「サハラが呼んでいる。」
夏の終わり、自分は内定辞退の電話を入れた。

【季節の変わり目】

サハラマラソンに申し込むとすぐ、季節は秋に変わる。なんて走りやすい季節なんだ、と思っているのも束の間、季節は冬に変わる。
練習時間の確保の為、トレーニングが深夜や早朝になる事もある。そんな中、帽子、サングラス、ネックウォーマーで顔全体を隠し、さらには10キロのバックパックを担いで走っても怪しい以外の何物でもない。
そんな厳しい冬を越えると、季節はようやく温かさが出てくる。春はすぐそこだ。

【いざ、フランスへ】

今年は25回記念という事で、参加者には大会前後、パリの高級ホテルが用意されている。
サハラマラソンの主催者は最高だ。
今年は25回記念という事で、距離も250キロが用意されている。
やっぱりサハラマラソンの主催者は最低だ。
パリで他の日本人参加者と落ち合い、翌日モロッコへと向かった。

【蘇る懐かしさ】

ワルザザードへ着くと、去年と同じ景色が広がっていた。「帰って来たー」と感傷に浸っていると「帰って来たねー」と、後ろから前回大会参加者の高井さんに声を掛けられた。
どんなに辛い大会であっても、また戻ってきたいと思ってしまうのは出場者、皆、共通なのだろう。
自分達だけでなく、同じく前回大会参加者の飯田さん、成宮さんもきっと同じ気持ちだったに違いない。

【ビックドゥン】

バスに揺られる事半日、自分達はようやくスタート地点に到着した。周りには何もない。あるとすれば大きな山と大きな砂丘くらい。今年は、どんなレースになるんだろう。期待と不安が入り混じる中、満点の星空の下眠りに就いた。

次の日、朝から荷物のチェックが行われた。日本人参加者も各自レースに必要な物、必要無い物を最後まで迷いながらも楽しそうに最終チェックを行っていた。それが終わると、1日中フリーとなる。
レース前日だから皆、体力を温存するのかと思ったら、そんな事は無い。遥々世界中からモロッコに集結した外国人が俄かに騒ぎ始める。そんな空気を感じたのか、少しずつ日本人のテンションも上がってくる。そして気がつくと、日本人の内数名はテントから見える山のような砂丘(ビックドゥン)に向かって走り始めている。「おいおいまじかよ・・・」と思いながらも、自分も他の参加者に連れられ、砂丘に行く羽目になってしまった。

こうして日本人参加者の内、数名は、レースが7日間から8日間に伸びてしまった。

【蘇る想い】

こうして迎えたレース初日。当然の事ながら皆一様にテンションが高い。そして、皆、気付かないふりをしているが、気温も高い。上空のヘリコプターと共に過去最多の1013名のランナーが一斉にスタートした。
他の外国人に乗せられ、自分のテンションも上がってしまいCP1まで全力で走ってしまった。そして、CP1を出る頃にはもうフラフラになっていた。「なんで又ここに戻って来てしまったんだろう」との想いが自分を支配していく。そして、遂にCP2で動けなくなってしまった。ここで倒れていると、沢山の日本人ランナーに励まされ、少しずつ元気になっていったが、成宮さんだけは、気付かずに通り過ぎて行ってしまった。

【滑落するわ】

レース1日目にして心に大きなダメージを負ってしまったが、その負担は体にも襲ってくる。奥平さんに至っては、一日目にして足の裏の皮が剥がれてしまっていた。しかし、レースは、未だ始まったばかりである。嫌でも朝はやってくる。そんな事を知ってか知らずか、自分達のテントでは、絶対にネガティブな事を言ってはいけない「ポジティブルール」が執行されていた。
特に厳しくルールを守っていたのは、ただ一人イギリスから参加した神原さん。フランスのスポーツショップでたまたま見つけた高性能のチャーハンに惚れこみ、自分で用意した食料を全部捨ててしまったというのだから、このレースにかける意気込みも人一倍なのだろう。

そして、レースは二日目を迎える。スタートから山と砂丘が交互に来るコースの為、足の裏への負担が心配でならなかったが、案の定CP2に着く頃には足の裏に水ぶくれが出来てしまっていた。このまま走って広がるのも嫌だったので、痛みを堪えて直ぐにハサミで処理をした。ゴールまでは後、15キロ程だった為、痛くても気合いで行くしかないと思ってた矢先、川に落ちて死んだ。瀕死状態のままさらに進むと前方に人が見えなくなった。あれ、コースを間違えたかも知れない。と、思って上を見上げたら山のような砂丘を人がロープを使って登っていた。

【ラクダの応援】

今日も楽勝だったね。と言ってテントのメンバーが次々と帰って来る。そして、三日目の朝ともなると自然とテントメンバーで今日のコースについてのブリーフィングが行われるようになっていた。皆、昨日の山には相当ショックを受けたみたいで、真剣にロードマップに目をやっている。
この日は、気温が高く感じられ、レース後、他の外国人選手の人から最高気温50度だったと知らされた。そこで自分はようやく納得した。レース中自分の前を歩いていた黒人選手が、スタッフの車が通った途端、急にレースを止めた。正直諦めるの早いだろと思ったが50度なら仕方ない。この時、自分もラクダが真横を通っても全く気にならなくなっていた。

【オーバーナイトに始まり、オーバーナイトに散る】

今日さえ乗り切ればゴールが見える。朝、何度、同じ事を言っただろうか。他の外国人選手同様、日本人参加者のテンションも物凄く低くなっている。朝8時30分スタートの筈なのに、その時刻にスタートにいる選手はいない。皆でやれば怖くないという事なのだろう。日本人参加者に至っては、ほぼ全員満身創痍、人によっては、歩く事さえままならない状態になっていた。ここから82キロも走るんだから、テンションが下がるのも無理は無い。スタート前、日本人参加者と握手をして走りだした。またゴールで会おう。

自分はサハラマラソンのオールナイトは、気持ちの勝負だと思っていた。ここで根性を出せなければ、この先も一生出せないだろうと自分を追い込み突き進んだ。足の痛みは、痛み止めを3倍くらい飲んでカバーした。チェックポイントも全てスルーした。前に前に。兎に角、それだけを考えていた。
しかし、あろうことか60キロ地点で痛み止めが底を着いてしまった。同時に激しい痛みに襲われた。自分は思わず地面に座り込んでしまった。周りには誰もいない。30分は動けなかった。しかし、毎日のように日本やアメリカからメールを送ってくれる人を思い出すと、動かずにはいられなかった。

【レース終盤】

無事オーバーナイトをクリアしたのはいいが、サソリに襲われた上土井さんや地面にヘッドスライディングをかました高井さん始め、皆、限界をとっくに越している。体がおかしくなれば、頭もやられてくる。門田さんに至っては「男はゲーター無しだ」と言ってゲーターをゴミ箱に捨ててしまっていた。
それでも皆前に進む気持ちだけは忘れていなかった。何が何でもゴールするんだという気持ちが全員から感じられた。

【ゴール】

迎えた最終日、レースが始まると同時に涙が溢れてきた。あんなに早く終わって欲しいと思っていたのに、今は終わるのが少し寂しく思えた。ゴールでは横山さんと田辺さんがビールを買って待っていてくれた。こんな美味しいビールは生まれて初めてだった。

ワルザザードに帰ってもビールを飲み続け、ホテルのビールが全部無くなってしまった。

日本に帰ると昨年より酷い浦島太郎となった。2年間、自分は夢の中にいたようだ。しかし、足の裏に描かれた傷跡だけは、今でもくっきりと残っている。

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