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レース体験記:サハラマラソン挑戦記
挑戦者: 宍戸 生司(宮前消防署警防第1課 消防士長)
レース: 第21回 サハラマラソン
期間: (1)大会期間:2006年4月7日〜4月17日
(2)レース期間:2006年4月9日〜4月15日

レース中の宍戸生司氏

サハラへの道

世界一過酷なマラソンと云われる「サハラマラソン」、イスラム教のラマダンがあけた毎年3月中旬以降の時期に、毎年開催される。北アフリカのモロッコ南部のサハラ砂漠を、7日間で約230kmを6つのステージに分けて走り歩きするレースである。主催者から指定された装備と、レースに必要な衣・食・住は、すべて自らが準備し、バックパックに詰めてレースに参加しなければならない。

水は1日に決められた量(約9リットル)が支給され、寝場所は現地で使用している簡易テント。この中で選手8名がともに寝起をし、野宿生活をしながらレースを続ける。テントの中からは星も見えるし、砂嵐がくれば、容易く崩壊してしまう。

荷物の重さは個人差もあるが、約6〜15kg。日中の気温は約40℃、明け方は10℃前後まで下がる。選手はロードブックとコンパスを頼りに、決められたチェックポイントを通過してゴールを目指す。

コースは初出場でも不利にならないように毎年変更されている。コースの地形は砂丘だけではなく、干上がった湖の湖底や石の多い固い大地など、平坦な道もあれば起伏の激しい峠もあり、変化に富んでいる。今回は世界32ケ国から731名が出場し、4月7日〜4月17日の11日間の日程(パリ集合・解散)で開催された。

これは3月末日まで所属した、中原消防署玉川出張所代表として、また娘との絆のために出場した軌跡である。

4月5日

朝9時に成田空港で他の日本人出場者7名と事務局の人と会う。今回出場する日本人は15名で、連続12回目の出場の女性もいた。残りの人たちとは、パリで合流、又は、4月7日に直接パリのシャルル・ドゴール空港に集合することになる。

私は早速免税店に赴き、ワイルドターキーとタバコを2カートン購入した。酒は飛行機を待つ間から飲み始め、空の上ではボトルは半分になっていた。少々飲みすぎたかと思っていたら、スチュアーデスが3人で私のところにやって来て、「これ以上お酒は飲まないで下さい!」と警告され、アイマスクを強制的にされてご就寝。10時間以上フライトしただろうか。パリに到着。やっとタバコが吸える。

屋外に出て一服していると、テレビカメラが何やら人を撮影していた。今回3人の女性(芸能人)も参加するそうである。同じ飛行機に乗っていたらしいが、泥酔していたので気が付かなかった。彼女たちとは別のホテルへ、我々はタクシーを飛ばした。このタクシーの運転手(セバスチャン)は、とても調子がよく、頼みもしないのにホテルとは違う方向のルーブル美術館やオペラ座に連れて廻し、車窓からの観光。「疲れているから早くホテルに行け」と島袋さん(女性)がフランス語でまくしたて、束の間の観光は終了した。

パリの日暮れは遅く、21時頃までは外は明るい。ホテルで荷物を降ろした後、食事に出かけた。

4月6日

どういうわけか、朝4時30分に目が覚めてしまった。3時間ほどしか寝てないが、身体はすこぶる調子がいい。同部屋の人を起こさないように着替えをしたが、起こしてしまった。朝食の8時までには戻るので、これから散歩に出かける旨を告げ部屋を出た。目指すはルーブル美術館!ここから4km位か。真っ暗なパリの街を走り歩きし始める。途中で野宿生活者が路上で寝ている。川崎とあまり変わらない光景だ。ただ違うのは、地下鉄からの換気ダクトがあり、そこから温風が昇ってきて暖かい。駐車中の車の間隔は、ほとんどなく、前後の車にぶつけて車道に出て行くのだろうか?ルーブル美術館から凱旋門へ距離を伸ばす。夜明け前の暗い街中を、地図を片手に走り出す。

途中で道路の要所に警察官が立っていた。「事件でもあったのかな?」と思っていると、いきなり職務質問された。どうやら「お前はどこへ行くんだ、何をしてるんだ?」と言っているようである。「私は凱旋門に行きたいんだ」と地図を示すと、「1本向うの通りが、シャンゼリーゼ通りで、それを真っ直ぐに行け」と教えてくれた。私のボディーランゲージもたいしたものである。後から聞いた話だが、この辺は役人やお偉いさんが住んでいる建物が多くある場所だったようである。

凱旋門に到着すると、少しだけ空が明るくなってきた。次はエッフェル塔を目指した。ここまで10km以上は走り歩きしている。エッフェル塔は朝焼けに浮かんで、突然、私の目の前に現れた。感動的な美しさだった。しばし心を奪われ見とれてしまった。時計を見ると7時15分を過ぎていた。どう考えてもホテルに8時には帰れない。セーヌ川沿いを歩いていると、地下鉄の入り口があった。「これだぁ!」迷わず地下鉄の改札口へ。改札口の中にいた女性(駅員)に、「リヨン駅まで大人1枚」と日本語で・・・1.6ユーロの切符を買った。ホームに降りたが方向が判らない。来る人来る人に話しかけ、1つめの駅で電車を乗り換えることが分った。

おフランスでは、英語はほとんど通じない。今度は電車に乗ろうとしたがドアが開かない。3回も電車を見送り、4回目でやっとこさ乗車!ドアのボタンを押さないと、扉が開かないのである。電車を乗り換えて、地下通路を数百メートル歩く。「乗換えを間違ったかなぁ?」「まぁ〜イイかぁ!」来た電車に飛び乗った。駅に着くたび駅名を確認するが、なかなか着かない7つ目の駅で「Gare de Lyon」に到着。朝食前の観光は終了した。

食後はソルボンヌ大学近くのショップに行き、サハラに持っていく食料品を買い足した。途中のノートルダム寺院近くのカフェに入り、飯とワインをがぶ飲みした。

4月7日

いよいよサハラへ出発。早朝5時30分にシャルル・ドゴール空港に集合する。ここで日本人選手15人全員が顔を揃えた。数時間遅れでチャーター機は離陸し、地中海を越え、アフリカ大陸へ!14時40分にワルザザード空港に着陸、機内からは拍手が沸き起こった。私は目頭が熱くなり、涙が出てきた。飛行機から降りると、乾いた大地が遠くまで続き、皮膚を射すような強い日差しが暑い。空は見たことのない、抜けるような青空がどこまでも広がっている。ここからスタート地点のメルズーカまで約300kmバスで移動する。

遅い昼食とトイレ休憩を挟みながらバスは進んでいく。いくつもの峠を考えられないスピードで走り、カスバを通り抜けて行く。私は一番前の席で、隣には柏木さん(芸能人)と話をしながら、楽しい時間を過ごした。・・ただ、柏木さんはバスに酔ったらしく、嘔吐をしてしまった。

メルズーカのカスバに到着後、快適な?バスの旅は終わり。次は大型の幌なし貨物車で、スタート地点の砂漠を目指す。これに乗るのが一苦労で、座る場所がない人は、立ち乗りで揺られなければならない。私は運よく、日本人スタッフのジープで移動することができた。

宿営地に着くと、噂には聞いていた、質素なテントが待っていた。テントの前にベルベル人が駱駝を連れていたので乗せてもらった。駱駝の背中はとても温かく、私には乗り心地の良いものだった。明日の夜飯までは出るが、今日からはレース終了まではテント暮らしである。早々に夜飯を食べに行ったが、順番待ちで1時間。食事は、パリ〜ダカール・ラリーで使われるような大型トレーラーで作られる。ワインの小瓶や缶ビールも付いている。夜中に数回トイレに行きたくなり目が覚めたが、満天の星空が美しい。流れ星とは違う、数分間星が尾を引いたものを見た。あれは隕石が大気圏に突入したものだったのだろうか。

4月8日 レース前日

午前中は自由時間だったので、テントの間をぶらぶらしていたら、ベルベル人がテント内で店を広げているのを発見。目移りするものも色々あったが、数人の日本人と一緒に交渉し、値切り合戦へ突入。商魂たくましいベルベル人にしてやられた感はあったが、言い値の半値、更に二割引にして、ダービャンとガラビーヤをお買い上げした。レース最終日は、この格好でゴールすることに決めた。

11時頃から砂嵐の洗礼を受け、眼を開けることができず、テントも飛ばされそうだった。午後からメディカルチェックと荷物検査があり、ゼッケンを受け取った。bV38、明日からのレースが楽しみである。チェックを終え、自分のテントに戻ると、砂嵐は一層強くなっており、テントがつぶれていた。付近にベルベル人もおらず、2時間以上テントの前で砂嵐と戯れた。夜飯になっても砂嵐は止まず、飯を食べているのか砂を食べているのかわからない。テントの中の絨毯は、砂に埋もれて姿が見えない。恐るべしサハラ、明日から1週間、お前には絶対負けない。

4月9日 レース1日目:28km 最高気温41.1℃ 湿度14%

この日の朝から自給自足の生活が始まった。レース中は決められた量の水以外には、食料の補給も支給も何もない。自分の背中に背負ったバックパックの中身だけが頼りである。レース前、日本人選手と健闘を誓い合いスタートラインへ。

上空にヘリコプターが超低空飛行(高度5m位か)する中、朝10時過ぎにスタート。水を含めた背中の重量は17kgを超えている。おそらく出場選手の中では、最も重い荷物を背負っての参加になったはずだ。小さなカスバを通り抜け、砂丘と砂の大地を走る。思っていたより緑が多く、椰子の木やサボテンに似た木を多く見た。第1CP(チェックポイント)まで12.5km、軽快に走り抜くことができた。暑さもさほど感じず、順位もかなり上位につけている。1.5gの水を1本もらい、次のCP2を目指す。

石の多い丘陵地帯を乗り越えると、両足に違和感が。始めは気にもとめなかったが、しばらくすると両下肢が痙攣してきた。ここからは無理をせず、積極的に歩いた。しかし、痙攣はひどくなる一方で、その場に立ち止まってマッサージをし、また歩き出す。丘陵の尾根沿いを進みCP2が下方に見えた。CP2まで残り3km位か?あそこまで行けばメディカルに診てもらえると思い、歩を進めた。

崖の上でバックパックを背中から降ろし、マッサージをしていると、腹筋と背筋、更には上下肢の痙攣が襲ってきた。あまりの痛みに顔を歪め、うめいていると、ジープに乗ったメディカルの医師が飛んできた。「お前、固形塩を飲んでいるか?水分は取っているか?」と聞かれた。どうやら固形塩をしっかり飲まないと、クランプ(痙攣)を起こすらしい。固形塩をあわてて飲んだが、クランプは治まらない。しばらく休憩した後、崖を下り始めた。時折襲ってくるクランプに立ち止まり、身体をだましだまし歩を進めたが、とうとう崖から数m下へ転落してしまった。他の選手に助けられ、自分の身体を立たせようとするが、体中が痙攣しているため身体が動かない。転落によるケガが無かったのは幸である。何とかCP2に辿り着いた私は、メディカルに直行しマッサージを受けた。このテントの中には、他の選手も多くいて、点滴処置やマッサージを受けていた。自分もマッサージを受けたが、何の役にもたたなかった。CP2で貰った水に塩を入れられ、「もっと水分をとれ!」と注意を受けた。でも貴重な水をここで一気に飲み干せば、ゴールまで残り7kmの道程は水無しである。とにかく本日のゴール(BP)を目指した。

数歩進んでは足をさすり、7km先のゴールを目指す。だが残り3km地点で完全に足が止まった。荷物を下に降ろし、クランプに耐えていると、遠くから医師の乗ったジープが現れた。車を私の真横につけ、彼らはジープから折畳式のイスを出すと、そこに私を座らせ荷物の上に足を乗せるように指示をした。約20分間マッサージをしてくれたが、症状は改善しない。医師は固形塩と水を私に差し出した。「これを飲んだら失格になる」と私は思い断った。しかし、「ノーペナルティー」と彼は微笑んだ。1.5gの水を一気に飲み干す。固形塩も飲んだ。女性医師が「あなたは熱中症を起こしている。これから点滴処置をするがOKか?」と聞いてきた。私は素直に治療を快諾した。点滴は全部で5本(ソルト4本、シュガー1本)され、次第にクランプは身体から消えていった。処置が終わったのは3時間後であった。医師は私の写真を写し、私も彼らの写真を撮った。私は彼らにお礼を述べ、軽快に走り出した。

山の斜面を峰伝いに登り、降って行く。残り2km位か、地平線の彼方にゴールが見えてきた。私は走るのを止めなかった。日が沈み薄暗くなった石の多い大地を駆け抜けゴールに飛び込んだ。ゴールで待っていた外国人女性(AOI職員=サハラ砂漠マラソン事務局職員)に泣きながら抱きつき、「SAVE MY LIFE BY DOC!」と大声で叫んでいた。スタートしてから9時間後のゴールであった。後で聞いた話だが、「あの日本人は地平線の向こうから走って来た。あの時間帯にゴールする奴は、対外歩いているのに珍しい」と噂になったそうである。とにかく生きてゴールし、明日スタートラインに立てる喜びが、全身を包んでいた。

4月10日 レース2日目:35km 最高気温42.1℃ 湿度15%

昨日の失敗を生かす為に、今日は水を最大で2.5g背負い、こまめに水分補給をしながら歩き抜くことにした。さらに固形塩を1時間に2粒ずつ摂取する。1日を通して、筋肉痛はあるもののクランプは起こらなかった。昼頃になると砂嵐が襲ってきて視界不良に困惑したが歩き続けた。水を積み過ぎているせいか、荷物は昨日より重たく感じる。しかし脱水症状になるよりはましだ。

いくつもの峠を越え、小さな砂丘を歩き続ける。聞こえるのは自分の呼吸する音と足音だけで、サハラ砂漠は全くの無音世界である。時折、どこからともなく人が現れて、岩場や砂地に座って応援している。この人達はどこから来たのだろうか?大人もいれば子供もいる。しかし、360度見渡しても、カスバや家は見当たらない。とても不思議だった。また、レース中にヤギや駱駝の群れを見ることができた。所々に草や潅木はあるが、川はない。おそらく地下水脈があり、そこから水分を得て生えているのだろう。

スタートして8時間後にゴール。両足裏には巨大なマメが水脹れをおこしており、メディカルへ直行。足裏の皮はナイフで削ぎ落とされ、水抜きをされた。この時、処置してくれた男性医師は、これ以降どこで会っても気さくに話しかけてくれ、私の足と身体を気遣ってくれた。靴から開放された両足は気持ちよさそうだったが、足裏のマメは深刻な状態であった。頼むから「明日ももってくれぇ〜」と月にお願いし就寝。

4月11日 レース3日目:38km 最高気温40℃ 湿度20%

いつものように日の出とともに起床。朝焼けが美しい。前日に拾った小枝に固形の着火材で火を起こし、お湯を沸かす。食事の用意をしているとベルベル人がテントを回収しにやって来る。彼らは回収したテントを次のゴールへ先回りして運び、設営する。昨日までの2日間で約60人がリタイヤをしている。「今年のサハラは例年に比べて湿度が高く、昼頃から砂嵐がやって来る最悪の気象条件だ」と、ベテラン選手が言っていた。朝食後、トイレットペーパーを片手に、ブッシュまで用をたしに歩いていく。足裏がとても痛く、ヨチヨチ歩きで時間がかかる。

朝9時過ぎにスタート!私は昨日と同様に、最後尾から駱駝2頭に乗ったベルベル人と一緒に歩き出した。いつもの様に音楽がガンガンに鳴り響き、上空には超低空飛行でヘリコプターが横にスライドしながら選手を撮影している。小さな砂丘を越え硬い地面を進み、干上がった湖を渡っていく。歩きだすと足裏の痛みは少し薄れたが、決して無理はしない。

CP1に着くと行動食を無理やり水で胃の中に流し込む。私は今までに3回フルマラソンを走った経験があるが、途中での燃料補給はしたことがなかった。しかしサハラでは想像以上にカロリー消費が激しく、食料の補給と水分摂取を怠ると脱水や熱中症になる。3日目になると胃腸も弱りだし下痢になり、コースを外れてブッシュにしゃがみ込むのが多くなってきた。この日もCP2の手前から砂嵐がやってきた。急な砂の斜面の登りを30分以上かけて上がるとCP2だった。しばらく休憩し行動食を食べ、タバコを一服。ここから見る景色は、地球上の世界とは思えないほど、無機質な砂と石の世界である。生命とは無縁な乾燥した荒野が眼下に広がっていた。

CP3に向かって川底と大砂丘を越えていると、約1km前方で照明弾が打ち上げられた。現場に着くと女性が両足をクランプさせ、メディカルの診察を受けていた。しばらくするとヘリコプターも飛んできた。この場所にはヘリも着陸はできない。私には何もすることができないので、レースに戻った。

幾つかの大砂丘と峰を越え、干上がった湖を歩いていると地平線の彼方にCP3が見えた。約4km、1時間は歩いてかかりそうだ。もくもくと歩きCP3もだいぶ大きく見え出した時、隣を歩いていたヨーロッパ人女性が顔面から地面に向かって倒れた。声を掛けると返事は返ってくるが、意識もうろうで脱力状態だった。バックパックとポシェットを外し、水を飲ませた。AOIのジープを探すと遠くに1台車両が見えた。私は持っていたストックを大きく振り、助けを求めると、それに気付いた選手がジープに向かって合図を送る。ジェスチャーゲームの用ではあったが、1分もしない内に異変に気づいたジープが、こちらに向かってくるのが視認できた。自分も先ほどから吐き気がしており、熱中症の一歩手前かと考えていた時の出来事だった。

CP3到着後、砂嵐の中休憩を取り、また歩き出す。ここからはスペイン人のフィリップとBPまで一緒に歩いた。途中に井戸があり、子供が水を汲んで選手を待ち構えている。井戸の水はとても冷たく、頭からかぶり顔を洗った。もちろんただではない。お菓子と交換である。フィリップと一緒に歩を進め、いろいろな話をした。お互い言葉は片言の英語が共通語だったが、とても楽しかった。

比較的大き目のカスバを通過すると水道があった。何人かの選手は水浴びをしていたので、私も順番を待ち水浴びに興じた。気がつくと外国人記者が私の写真を撮りまくっていた。井戸や水道の水は飲めるものではなかったが、身体にはサハラの風を涼風に変えてくれる効果があった。

スタートして9時間後、フィリップと一緒にゴール。明日はオールナイトステージ、またスタートラインに立てる喜びが私の全身を振るわせた。

4月12日 レース4日目:58km 最高気温39.3℃ 湿度16%

昨日、夜飯を食べているとAIO職員がテントに来て、明日のコース変更を告げられた。昨日までのリタイヤ者が120人を超え、コースの変更と距離の短縮の説明を受けた。日本人選手も2名リタイヤしている。この中には出場12回目のベテランの小室さんもいた。

今日のスタートは10時、トップの55名は12時スタートである。いつものように最後方から歩いてスタート。明日の2時までにCP5、14時までにBPにゴールしなければならない。自分はCPでの仮眠はしないで、58kmを夜明けまでに歩ききるつもりだ。

CP1まで軽快に歩けたが、足裏の痛みはひどく下痢も続いており、途中何度かブッシュで用をたした。CP1を過ぎて歩いていると、12時スタートのトップ集団に追いつかれ、抜かされていく。起伏の激しい川底の道を彼らは走っていく。日本人トップの井上君もやってきた。私は後方からやって来た彼の写真をとりながら声をかけると、無言で私に手紙を渡し走り去って行った。手紙の内容は私の心を熱くする内容で、必ずゴールしようと気合を入れ直した。

CP2を目指し歩いていると、木陰で福井さん(芸能人)が食事をしていた。水戻しで食べられるアルファー米を、時間を計算して調理しておいたようだ。この暑さで食欲を失えば、待っているのはリタイヤだけである。

砂丘越えの道に入ると、恒例の砂嵐がやって来た。高低さの激しい大砂丘をいくつも越えるが、CP2は見えてこない。空気も熱く、息をするのも喉が焼けそうに感じる。高さ100m程の大砂丘を登り尾根伝いに進むと、眼下の盆地にCP2が見えてきた。気が緩んだせいか、しもまで緩み下着を汚してしまった。幸いに後方に選手がいなかったので、その場で処理し用をたした。汚れた下着はCP2で捨て、ノ−パンでBPを目指す。ごみやペットボトルを決められた場所に廃棄しないと、失格となる厳しいペナルティーが待っている。

CP2で燃料補給と休憩をしていると、子供が「食料をくれ」と寄ってきた。行動食に余分はあったが、私も疲れがピークに達しており、今思い返すと嫌な対応をとってしまった。申し訳ない。

CP2からCP3までの記憶は、意識もうろうとして歩いていたので、あまり記憶がない。ただ、「早く日が沈め!」と強く念じて、太陽を何度も睨みつけながら歩いた記憶は残っている。

CP3を過ぎて2時間程歩くと日が沈んだ。モロッコはマグレブ(日が沈む国)と云われるように、大地に沈む夕日は感動的な美しさだった。太陽と入れ替わりに月が砂漠を照らし出した。今日は満月、月明かりが大地をやさしく包んでいる。CP4から発射された緑色のレーザーが天空に広がり、選手を誘導している。娘(月碧:るのあ)の笑顔を思い出しながら、月に語りかけ歩を進めた。

20時頃にCP4に辿り着く。あの男性医師が出迎えてくれた。彼は優しい笑顔で、「足の状態はどうだ?固形塩は飲んでいるか?」と気遣ってくれた。休憩していると、福井さんが後からやって来た。自分で携帯していたラッパのマークを飲んではいたが、効果は薄かった。福井さんから強力な下痢止めをいただき飲んだが、CP4を出発する前に、砂丘の中で一寸失礼!残り23.5km、CP5まで10km、制限時間内の2時までは着けそうである。

暗闇の砂丘の中、月明かりとヘッドライトと頼りに、目印の蛍光灯(スティック状のものが500m間隔で置いてある)を目指し歩き出す。選手はCP4で蛍光灯をもらい背中のバックパックに付けなければならない。後方から来る選手の目印にもなるのだ。

石の多い硬い地域を歩いていると、暗闇の中に光る眼のようなものが見えた。50m先の場所で、その眼光は私の膝下ぐらいの位置にある。動物だろうか?「ここはアフリカ、ライオンじゃないよね?砂漠にライオンはいないでしょう!」と考えながら、視線は決して離さなかった。しばらくすると、眼光は暗闇の奥へ消えて行った。

0時過ぎにCP5に到着、AIO職員に連れられメディカルへ直行。窮屈な靴から開放された両足を見ると、足裏の状態は最悪で、足首がわからないほどの浮腫になっていた。感染症をおこしているようだ。簡易的な治療を受けていると、突然に悪寒が襲ってきた。とにかく寒い、気温は10℃位か?バックパックからダ−ビャンとガラビーヤを取り出し、ベルベル人に変身!タバコを吸って血管を収縮させるが効果はない。このCP5では仮眠をとる人が多いが、私は次のCP6を目指し、1時過ぎに再び歩き出した。

こんな時間に歩いている選手は、私ぐらいなものである。暗闇の壁に吸い込まれそうになり、寒さに震えながら歩んでいく。突然に風が強くなり、砂嵐発生!遠くにCP6の灯りのようなものが見えるが、なかなか辿り着かない。後方からAOI職員の乗るジープがやって来た。私は、「いい天気だねぇ!砂漠を楽しんでいるよ」と強がりを言って、親指を突き上げた。「CP6まで残り1.5kmだ。気をつけて歩いて行けよ!」と彼らも親指を突き上げ、立ち去って行った。9.5km先のCP6には4時過ぎに到着した。

第4ステージのゴールまで残り4km、BPまで一気に歩こうかと思ったが、身体が動かない。AOI職員に、「すぐに出発するのか」と聞かれたが、「少し休んでから、30分間休憩してから出発する」と答えた。メディカルのテントに倒れ込むと、いつのまにか寝てしまった。寒さで目が覚めると、10分ほど時間は経過していた。バックパックを背負い直し、4時30分頃に歩き出した。このまま順調に歩ければ、夜明けと共にゴールができる。1時間位歩くと、左側に廃墟の家があり、正面の丘の上に高さ15m位の石塔が現れた。「BPは近い、この丘を登ればBPが見える」と思ったが、BPは見えなかった。地平線の彼方にBPの様なものが見える。あれなのか?一瞬立ち止まり付近を見渡したが、目印の蛍光灯も看板も見当たらない。

夜も明け始め、辺りは明るくなり始めてきた。疲れが溜まっていたせいか、よく考えずに先に進んでしまった。さらに1時間ほど歩くとBPと思って見えていたものが、少しずつハッキリと見えてくる。あれはBPではなく、木か石のようなものである。迷った!砂漠に足跡を探すが、足跡は1つも付いていない。「軽くヤバイ!」後ろを振り返ると、誰もいるはずもない。「すごくヤバイ!」遠くにあの石塔が点のように見える。「あそこまで戻るか?いや、おそらくBPから右方向にズレているから、左の方向に歩けば着くはず」と考え、幾つもの砂丘を越えるがBPは見えてこない。以前の大会で道に迷った人が、大会終了後1週間後に隣国のアルジェリアで発見された話を思い出した。バックパックを背中から降ろし、地図と方位磁石を取り出しBPを確認する。北5°の方向にBPはある。すっかり夜は開け、辺りは静寂を保っている。大きな砂丘を登れば、その分降らなければならない。疲れきった身体に精神的不安も重なり本当に辛い。砂丘を登り左方向を見ると、砂丘の谷間からAOIのジープが走っているのが見えた。さらに幾つもの砂丘を越えていくと、BPのテントが見えた。左手に握り締めた、川崎大師のお守りを高々と空に突き上げ、「月碧(るのあ)!父ちゃんは生きてるぞぉーッ!」と雄叫びをあげてしまった。BPとは別方向から、誰かが私の方へ向かって歩いて来る。通常のコースから外れてBPに向かう私を迎えに来てくれたのか?その人はイギリス人選手で、先にゴールはしていたが、なくしモノを探しに来ていたらしい。一緒に砂丘を何度か越え、石の転がる硬い大地を歩く。BPまで残り200m、自然と涙が溢れ出し、生きている喜びを噛みしめた。イギリス人男性は、「お前はタフな男だ!本当に凄いヤツだ!また明日、一緒にスタートラインに立とう」と、私に言ってくれた。

ゴールをすると、外国人記者がテレビカメラで私を撮影している。私を追いかけて日本人テントまでやって来て、インタビューさせられた。ベルベル人の格好をした日本人が、そんなに珍しいのか?私はたった4kmの道程を、3時間以上砂漠を彷徨い歩き続けていた。スタートしてから20時間以上歩いていたことになる。私は涙もろい方ではないが、サハラは私の心を純粋にさせる、特別な力を持っている場所に感じた。テントでは、先にゴールした日本人選手が出迎えてくれたが、なぜ私が泣いていたか、最初理由がわからなかったようだ。長い一日が終わった。58kmの道程を夜通し歩ききった余韻に浸り、なかなか寝袋に入っても寝付くことができなかった。

4月13日 レース5日目:休養日 最高気温38℃ 湿度24%

数時間の仮眠後、砂嵐で目が覚めた。顔の上に砂が溜まっている。腹も減ったが、行動食だけ食べてメディカルで診察してもらう。あの優しい医師に診てもらいたかったが、彼は隣で別の患者を治療していた。今回は女性医師だったが、治療後彼女に頼んで、彼と私が一緒の写真を撮ってもらった。

治療をしても足の方は痛みはさらに強くなり、股関節のリンパも腫れてきている。痛み止めの薬と感染症防止の抗生物質を飲んでいるが、明日のマラソンステージは大丈夫であろうか?治療後、メールを送信しにメール専用テントを訪れた。1時間待ちではあったが、毎日メールを送信してくれて、心の支えになってくれた人への返信である。私はいつもゴールをする時間が遅いので、メール専用テントの営業時間が終わってしまい、返信することが出来なかったのである。あなたから送られたメールは、私の宝物です。サハラで純粋になった気持ちを、文章にしてメール送信した。このメールの送受信は、すべてローマ字でなければ受付けられない。つまり、日本語変換されたものは届かないのである。

小腹が減った私は自分のテントに戻り、お湯を沸かし豪華な昼食タイム。隠し味はサハラの砂。何を口に入れても必ず砂は入ってくる。砂が入らないほうが無理な注文である。昼食後、アイドル3人組みと仲良くお昼寝、彼女達とは良き仲間になれた気がする。もちろん、他の日本人選手ともである。このテントには、アイドル3人(女性)、日本人男性4人、香港人男性1名の8人が生活している。私は香港人の王偉健(キンさん)と、とても仲良くなり、時間があると片言の英語と北京語で会話を楽しんだ。キンさんは私と同い年で、レース2日目にタイムオーバーでリタイヤをしている。彼が携帯していた食料はすべてAOIに没収され、寝袋等の装備品だけを携帯している。食事の時間になるとリタイヤした人は、あるテントに集合し、トレーラーで調理された食事を一緒に食べるそうである。本当にキンさんとは色々な話をし、朋友になれたと感じた。

就寝間際に珍入者が現われた!サソリである。あまり大きくはなかったが、テントの中を駆け巡り、すばしっこい動きをしていた。翔平くん(東海大学4年生)と隅田さんが、果敢にも追い掛け回しテントの外へ追い払ってくれた。サソリが動き回っていた場所は、私が寝るスペースだったので、気持ちは一気にブルーになった。

4月14日 レース6日目:42.2km 最高気温34.2℃ 湿度21%

普段は鼻血を出すことはめったにないが、固形塩を飲んでいるせいか鼻血がよく出る。芸能人の西秋さんもそのようで、鼻にティッシュを詰めながら笑顔を振り撒いていた。この日のタイムリミットは、夜の20時までの11時間。昨日までのリタイヤ者は、130人を超えている。スタートラインに並ぶ人達も、少なく感じる。このステージをクリアーすれば、完走が大きく近づく。「オイラの足よ、頼むから頑張ってくれ!」と祈る気持ちでスタート。

いきなりの大砂丘越えに膝下まで砂がめり込む。低空飛行で近づくヘリコプターに手を振り、マイペースで砂丘を越えていく。石の多い台地、丘陵地帯、砂利のある谷を通過しCP2へ。22.5kmを4時間で歩ききった。嬉しいことにCP1・CP2で水が2本ずつ支給された。余った水は頭や身体の冷却に、そのままかける。荷物の重量も10kg位になり、たいして重さは感じない。ただ、休憩後に歩き出すと、足裏の痛みがしばらく続く。しかし30分も歩くと、痛みは徐々に薄れていった。私の前を歩いていた女性が、突然コースを外れ数m先でしゃがみ込んだ。お尻を私のほうに向けて、放尿タイムである。男性も女性も日にちが経つにつれて野生化して行く。夕暮れに空が染まる頃、CP4(39.5km)に到着した。

CP4で休んでいるとフィリップが、「ヘイ、セイジ、煙草を吸ってるなんて、君は悪いヤツだなぁ!」と声をかけてきた。フィリップに、「煙草は俺のエネルギーバーなんだよ!」と応えると、腹を抱えて笑われた。残り2.7kmは足を引きずりながらゴールした。スタートして9時間が経過していた。すでに辺りは暗くなっており、メディカルに直行し足の治療を受けた。

自分のテントに戻る時、何やらステージのようなものが組まれていて、楽器を持つ人達がいた。これからクラッシックコンサートが始まるらしい。ステージの前でゆっくり聞きたかったが、飯の用意に追われて時間が無かった。今回のサハラ砂漠マラソンの映像もスクリーンに放映されたそうである。私は寒さに震え、ベルベル人に変身しながら、人より遅い夕食にありついた。

4月15日 レース7日目:11.8km 最高気温32℃ 湿度25%

レース最終日、朝日が昇るのと同時に起床。今日の朝は特に底冷えがして寒い。固形燃料は昨日で使い切ってしまったので、枯れ枝を拾いに行く。空気が乾燥しているので、枯れ枝に火をつけるとよく燃える。朝食を済ませ、トイレットペーパー片手にブッシュへ歩く。この辺りはモノが散乱してあるので要注意!ポジションを決めて頑張っていると、フンコロガシが登場して来た。サハラでは他にバッタ、蛾、蝿等の虫を目にした。また、コオロギに似た泣き声の虫を聞くこともあった。生きものの強い生命力を感じる。

スタート時間も迫り、いつものように皆で円陣を組む。掛け声はいつも「ファイト!一発!」だった。いつものように大音量で音楽が鳴り響く中、最後方からスタート。たけチャンと一緒に歩き出した。彼は、英語、スペイン語、ポルトガル語を話せる日本人なのだ。彼の肉離れを起している足は、約1.5倍に膨れ上がっており、歩くのも辛そうである。私は何気なく走ってみると、走れるじゃん!不思議と足の痛みは感じない。私は何故か一刻も早くゴールして、サハラ砂漠マラソンの余韻に浸りたいと思った。

石の多い硬い道を、地平線に向かって軽快に走る。次々に前を歩く人、走る人を追い越していく。とても気分が爽快になった。途中で付近に住んでいるベルベル人から大声援を受けた。「ヤポン!ヤポン!」ベルベル人の格好をして走っているのを気に入ってくれたらしい。でも、なぜ私が日本人だと知っていたのか疑問に思った。

地平線の向こうに大きな砂丘が見えてきた。走るスピードは落とさない。誰にも抜かれない。小さなカスバを通り抜け、砂丘地帯に入った。5kmの大砂丘地帯を越えると給水塔があり、そこが目指すゴールである。膝下まで砂に埋まりながら楽しんで走る。私は走るのが好きではない。苦しいし、疲れるから。しかし、今回サハラに来て、少しだけ走るのが好きになった自分がいた。これでイスラムの神様は、私の願い事を聞いてくれるだろう。

給水塔が見えてきた!ギャラリーも砂丘に座り選手を応援している。傾斜の急な砂丘を登りきると、ゴールが見えた。先にゴールしていた隅田さんと井上君が、私を応援してくれているのも見えた。私は彼らの前でレッグカールをし、エアロビクスで踊り始めた。ゴール前で大歓声が聞こえる!「月碧(るのあ)〜」と娘の名前を大絶叫し、ゴール前でエアロビをヒートアップさせて踊りながら腰をクネクネ!ゆっくりとゴールゲートを通過した。私の首に大きな完走メダルをかけてもらい、喜びは最高点に達した。不思議と笑顔しか出てこなかった。

母子であろうか?ゴールから離れた片隅で、選手たちを見ている親子3人がいた。私は自分の娘とその子が、顔も似てないのに姿が重なってしまい、余った行動食とお菓子、支給された昼食の半分を渡した。そのお礼なのであろうか?彼女らは素敵な笑顔で、私に微笑んでくれた。

ゴール後はメルズーカからバスに揺られて300km、ワルザザードに6時間以上かけて戻り、高級ホテルにご宿泊!出場者がホテルで最初にすることは皆同じ。9日ぶりのシャワーである。髪の毛は何回洗っても砂が出てくる。こんな砂と汗にまみれた体験も貴重に思えてならない。

サハラ砂漠では、私にとって何もかもが新鮮に感じ、人間本来の姿に戻ることができた。良き仲間に出会えたことも財産である。ありがとうサハラ!来年もまた、私はこの灼熱の大地に戻ってきたい。来年が無理でも、いつの日か再度サハラ砂漠マラソンに出場する気持ちになっていた。煙草を吸いながら走ってきた砂漠を見つめると、サハラの風が優しく私の身体を包み込む。とても気持ちのいい涼風だ。一週間のレースを思い出し、痛む足を擦りながら、「今度はリベンジだな!」と、一人でつぶやく自分がいた。

第21回サハラ砂漠マラソンは731人が出場し585人が完走した。


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