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レース体験記:サハラマラソン挑戦記

挑戦者:多田慎一
レース:第19回 サハラマラソン
時期:2004年4月約11日間

砂漠を進む多田慎一さん

2004年4月の第19回サハラマラソンレースに参加し、完走することができた。私の成績は合計42時間36分(平均速度5.6km/h)で350位だった。なお、私のフルマラソンの平均速度は11.0km/h強である。

1.なぜサハラ

2001年、TVでこのレースが紹介されたのを観て、興味を惹いた。これまで、アフガニスタンや中国奥地の砂漠をバスや鉄道で旅行したことはある。登山は30年、ランニングは10年以上継続している。はっきりしたことは自分でもわからないが、砂漠の旅と山とランニングとを同時に楽しめそうと感じたのが参加の動機かも知れない。2002年12月にがんで胃の2/3を失うなど障害もあったが、3年がかりで、休暇取得を含めた準備を整え、参加することができた。

2.砂漠を走るとは

全コース237kmの60%は土であり、ふつうに走った。20%は砂利道。数cmから20cmほどの石が転がっている。捻挫や転倒を怖れ歩いた。残り20%は砂地で、数cm足がめり込む。私の脚力では走ることは困難で歩いた。湿度20%、日中は40℃以上になる。湿度のためか、暑さはさほど感じない。汗もかいたという自覚はないが、体が水を求める。ザックの水筒からパイプを伸ばして口にくわえ、10分おきに水を飲んだ。
コースは稀に使用する通商ルートであるらしく、らくだのフンや車両の轍がある。さらに、主催者(以下AOI)設置の道しるべもあるので、迷う心配は少ない。また、各日午前中ぐらいは選手が数メートル間隔で連なるので、前の選手を追いかけていれば安心である。
景色の大半は大平原、360度地平線まで見渡せる。前にも後ろにも選手たちが一直線に連なる。遠くに蜃気楼が見えている。逃げ水の巨大なものである。風の音だけの静寂のなか、広々としたところを走るのは快適である。風の香りや、荷物を背負っている事、テント泊自炊など、全体の雰囲気は日本の夏山に似ている。
安全性については十分配慮されている。時折AOIの車両やヘリが選手を確認している。CPでは確実に水が手に入るし、医師が鋭い目を光らせている。選手も発煙筒を持っていて、それを使用すれば、助けが飛んでくる。
意外に生き物は多かった。タンポポに似た花、イナゴに似た虫をよく目にした。コオロギ似た虫の声、スズメに似た鳥の声も聞いた。モロッコ人のテントや家畜にも出会った。

3.レース中の一日の様子

まずテント村の様子である。風呂やシャワーはない。支給される水を体に掛ける程度である。トイレもない。選手用テントはモロッコ人が現地で使用しているものと同じである。一枚の黒っぽい布を棒切れで支える。四方を壁にすると、出入りが不可能になるので、最低壁一面は開けっ放し。布の織り方が荒いので、天井から星が見える。床には絨毯が敷かれていて2m×5mぐらいか。そこを選手8人前後が使用する。80張りが300mほどの円周上に設置されている。近くにAOI職員用の白いドア付きの普通のテントもある。
ゴミはAOIが回収する。砂漠保護のためゴミ捨ては厳禁。トイレ後の紙も回収しなければならない。支給ペットボトルとふたにはゼッケン番号が記され、所定の場所以外に捨てるとペナルティである。
次に、日によって距離や天候が違うが、一日の大体の様子である。
6時頃起床。前日集めた枯れ枝で焚き火して朝食。その後気温が上がってくるのを待って寝巻き用のウールやタイツを脱ぎ、レース用の綿シャツ短パンに着替える。8時30分スタート地点へ移動する。鉄枠・布張りの高さ3m幅10mほどの門がある。直径2m高さ3mの空気入りの赤い柱が3本ある。8時45分、このレースの創始者であり、今回もレースの総責任者であるAOIのパトリック・バウアーが注意事項をフランス語でスピーチし、逐次英訳される。9時カウントダウンでヨーイドンである。
選手たちはそれぞれのペースで、次のCPを目指し、走り、歩く。私の場合、CP間10kmの所要時間は90分前後である。CPに着くとAOI職員が1.5リットル入りの水を一本くれる。水筒に給水し、行動食を食べる。やがて夕刻、地平線上に赤い空気入りの柱が見える。スタート地点にあった門や柱はもちろん、テント村全体が先回りして、選手を待っていてくれる。見えてから約30分を要するから、地平線まで3kmぐらいだろう。門をくぐる。その日のゴールである。水3本を受け取る。一休みの後、枯れ枝とかまどにする石を拾いに行く。石がなく、らくだの骨のこともあった。
17時すぎAOI職員がe−mailをプリントしたA4の紙を配布。受信は無料である。送信は5通で30ユーロ。18時過ぎ、気温が下がってきて、寝巻き用のウールやタイツに着替える。19時過ぎ夕食終了、20時寝袋に入る。10時間寝ていることになる。

4.持ち物など

(1)レース中のかっこう

・靴:サロモン社製ゴアテックス。ひとサイズ大きいのにした。スパッツ併用で砂は殆ど入らず。スパッツとは足首を覆い、靴に砂が入るのを防止するもので、綿で自作した。靴との隙間を作らぬよう太さ2mmの登山用の紐を靴底に通し、きっちり固定した。
・衣類:上半身は薄手・綿・長袖のポロシャツ。下半身はゆったりめのランニング用化繊短パン。

(2)食糧と献立

考え方は腐らないこと、カロリーあたりの重量・体積が小さいこと、壊れないこと、心も多少は満たすこと、火が使えなくても食べられることである。一日あたり3000kcalで次の献立にした。
・ 朝食と夕食計:味付きα米300g、フリーズドライのカツ丼、ポテトサラダなど、食塩少々。
・ 行動食:カロリーメイトやその類似商品120g、ナッツ類・乾燥バナナなど80g、スポーツ飲料30g(溶かして1000cc分)など。
他にビタミン剤6泊分40g。お茶としてゴマきなこ・粉末クリーム・砂糖6泊分100g。また、最長76kmの日は夜も行動するので、夕食も行動食にした。

(3)持ち物

 ともかく重量・体積削減に工夫した。ザック1450g、装備計4800g、食糧4100g、水最大1500gで重量合計最大12kg弱。主な装備の工夫と反省とを記す。

  • 寝具:羽毛寝袋510g、寝袋カバー200g。高価なので悩んだが新規に買った。手持ちに比して重量で半減、体積で1/4になった。
  • テント用衣類:ウールシャツ・綿シャツ・ウール下着、タイツ・ジャージ。合計1100g。ちょっと多すぎた。
  • ヘッドランプ:発光ダイオードランプ120g。旧来の電球タイプに比して、重量・体積とも半減である。加えて、単四3本で150時間使用可能であり、電池交換不要だった。
  • カメラ:ニコン3200、150g。100コマ以上撮影可能。デジカメなのでフィルムも不要で軽い。
  • なべ兼食器:チタン製160g。食器は待たず、なべに直接食らいついた。
  • 燃料:枯れ枝焚き火が前提。着火材として小さな固形燃料を12本100gだけ持った。
  • 水筒:水用にパイプ付水筒1000c90g。スポーツ飲料用に500ccのペットボトル30g。
  • テント村用サンダル:飛行機内用スリッパ。これに布製カバーを自作し、120g。
  • マット:330g。薄くすればもっと軽かった。むしろ、提供される絨毯だけで十分で、マットは不要だったかも知れない。
  • 日本てぬぐい:20g。タオルは50gもあるので不採用。
  • ナイフ:120g。刃渡り2cmのちびナイフ。規則で持たねばならないが、一回も使用しなかった。
  • 薬:腹こわし対策に整腸剤と、マメ対策に消毒薬とコンピード。コンピードとは商品名で分厚いカットバンである。マメを押さえ、衝撃も吸収する。薬計100g。やむをえない。
  • 重品:パスポート30g、切符30g、手帳50g、紙幣少々5g、クレジットカード5gなど。これまたやむをえない。

(4)預け

自宅・モロッコ往復の衣類、シャンプー、硬貨、ガイドブック、などはAOIに預けた。

5.走り訓練

2003年12月からサハラ用訓練を始めた。土日は12kg背負って、各々原則2時間以上連続して走った。走りながらのパイプからの水飲み、行動食、スパッツなどをテストした。時折、会社の帰りに、横浜駅・自宅12kmを2時間で歩いた。2月に訓練の最長、54kmを約7時間で走った。

6. 実施

4月7日:
日本発パリ着。フライトはJAL¥87,400。宿は北駅近くの安宿¥6,000。自分で手配した。

4月8日:
。パリで休養。

4月9日:
。早朝シャルルドゴール空港集合。日本人選手仲間5人にここで初めてお会いした。予定より5時間遅れでパリ発。機内でコース資料が配布された。仏・英語併記。AOIのHPで昨年のコースマップを見て、未知の単語は和訳をメモっておいた。隅々まで読んで頭に叩き込んだ。3時間で小さなワルザザード空港に着陸。エアコン・リクライニングの豪華バスにすぐ乗り込む。星空の下、トラックに乗り継ぐ。大きな流れ星に「完走」を念じた。テント村に着いてすぐ夕食。ワインの小瓶もついたが、コップはすぐに砂まみれで使う気しない。ラッパ飲みした。
4月10日。食糧、装備、最後に体が検査された。発煙筒と塩の錠剤も受け取った。前夜の気温、この日の日中の気温から、衣類などを最終決定した。レースに不要な荷物をカバンに入れ預けた。

4月11日:
28km。12日32km。略。

4月13日:
37km。そのうち20kmが砂丘越えである。登り下りを少なく、かつ最短となるようコース取りに気を使った。途中お土産用に砂を採取した。

4月14日:
この日は、最長76kmであり、本レース最大の難関である。長丁場のためか、欧州人女性選手がコースからたった数m離れただけでしゃがんでいるのを何度か目にした。一方では欧州人男子選手はでに放屁し、周りに平身低頭あやまっていた。13時15分CP2着(21km)。これでようやく全行程237kmの半分である。まだまだ先は長い。16時20分CP3着(33km)、照明スティックを渡された。18時CP4着(46km)。帽子とサングラスをしまい、ヘッドランプを取り出した。18時半陽が落ちる。照明スティックは折るとオレンジ色の光を発する。紐でザックにぶら下げた。道しるべは薄緑色の照明スティックである。19時過ぎるともうまっ暗である。走るのは危険で、歩くしかない。20時40分CP5着(59km)今日中にテント村に着くギリギリである。さっさと横になりたい一心で先を急ぐ。星が地平線まで輝いている。遠くに先行者のオレンジ、道しるべの薄緑がかすかに見えるが、時々星と見間違えてしまう。平原の中を歩いているはずなのに暗闇が大木に見えてしまい、ぶつかりそうな錯覚に陥る。転倒捻挫もこわい。腰が引けてくる。それでも、すぐに慣れた。横浜駅・自宅を歩いた訓練も役に立った。紅毛碧眼の大男たちをどんどん抜く。快感である。幕末以降、欧米に追いつき追い越せを標榜した先人の気持ちを垣間見たような気がした。

4月15日:
午前0時20分ようやくテント村着。水3本を受け取り、バタンキュウ。朝遅く起きて、休養の一日である。昼、蟹入り五目すし、キムチ納豆をごちそうになった。私は重量軽減のみを考えてきたが、日本人ベテラン勢は楽しむこともお考えで、たいしたものである。のんびりも束の間で、午後砂嵐。砂まみれの夕食だった。寝る前、絨毯に降り積もった砂を集めた。5リットルはあっただろう。

4月16日:
42km。略。

4月17日:
20km。いよいよ最終日である。足元には注意するが、全力で走ろう。ザックのベルトも走り用に調整する。余った食糧はもちろん、食器までも捨てている選手もいた。最後のスタートカウントダウンの後、選手たちが歓声を上げて飛び出した。スタートしてすぐ草むらがある。選手たちは放たれた猟犬のように草むらを駆け抜けていく。私も負けじと走る。砂地も砂を蹴って走れた。CPではちょっと水を飲んだだけ。1分そこそこの休憩だった。途中の村で子ども達が並んで応援してくれる。やがてスタートして2時間、ゴールであるタゴニテの町に入り、非舗装道路を走る。交差点を左折した。直線の舗装道路で、何と200m先に見慣れたゴールの門が見えるではないか。思わず口から「オーッ!」と叫び声がでる。昨日まで5回あの門をくぐった。今度が最後である。涙が出てくる。この町のメインストリートなのだろう。このレース最初にして最後の舗装道路をラストスパート。8kgの荷物も気にならない。門をくぐった。ゴールだ。AOI職員が肩を抱いて迎えてくれる。首に赤い紐に金色の完走メダルを掛けてくれる。ずっしりと重い。とうとう完走した。237kmを走りきった。このレースを知ってからの3年間、がん手術後の16ヶ月が頭をよぎる。この一瞬のために準備を重ねてきた。本当に完走できたのだ。
バス4時間でワルザザードの高級ホテル着。レース中知り合った選手たちと顔をあわせる都度「完走した?」「したよ。」と握手し、祝福しあった。

4月18日:
ワルザザード市内散策。ホテルで表彰式。モロッコ料理タジンやモロッコワインがおいしい。

4月19日:
予定より5時間遅れでワルザザード発パリ深夜着。宿に友人から「完走おめでとう。」とfaxが来ていた。うれしかったし、久しぶりに目にする日本の文字にほっとする思い。

4月20日:
パリ発、翌日帰国。

−以上−

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